Daringdaddy’s days

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追悼・チバユウスケ「バラけたままの現実を射貫く言葉」

アベフトシに続き、何とチバユウスケも亡くなってしまった。

 

私の10代・20代はTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとともにあった。

彼らの音楽がなければ今の自分はない。チバの言霊がなければ今の自分はない。

 

以下のテキストは、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの名作「Chicken Zombies」リリース後にROCKIN' ON JAPAN 1999年8月号に投稿したもの。

 

GEAR BLUES以降はまた作風が変わっているので、主にChicken ZombiesとHigh Timeの2つのアルバムを聴きまくって味わいまくって、「ここが違うんだ!」と気づいた内容。今となっては恥ずかしい箇所も多数あるが、あえてほぼ当時のまま晒してみる。

 

ミッシェル好きな方にとって、あーあの詩ってそんな見方もあるのね、と多少でも参考になれば、これ以上幸せなことはありません。

バラけたままの現実を射抜く言葉
〜 強靱な意識家・チバユウスケの透徹した視線

ロックは個人の内面を扱った表現であるが、それにしてもこれまで「僕」「君」といった一人称に固執しすぎたのではないか。ブルーズを表現するのになにも「僕」とか「君」とか言った言葉を使う必然性なぞないことを、「ブギー」の乾ききった無常観の描かれ様は示す。一人称が一切使われていないにも関わらず、あそこまで断絶を描ききった詩を他に知らない。

 

個人の内面へのアプローチを最初から一人称的な言葉に限定するのだから、表現の幅はぐんと狭まる。表現されるものは一人称の貧弱なリアリズムから抜け出せないでいるし、表現し得ない感情は鬱積していくばかり。現実についていってない。現実についていこうとしていない。見て見ぬふりのまま「ロック」し続けてる。ロックの現状だ。

 

チバユウスケは透徹した視線で世界を見つめる、強靱な精神の持ち主だ。あの詩に表されているような、バラバラで理不尽で切迫して悪臭漂う世界観を抱けること自体が驚嘆に値する。並の人間の心は普通、バラバラで無秩序な世界の性質に耐えられないから、宗教なりイデオロギーなり哲学なり他人なりにすがることで、張り裂けそうな世界観をまとまった方向に持っていこうとする。よくある「絶望の後には希望が…」系ロックソングはそういう人間の心の限界の露呈に過ぎない。だがそれは本質的には自己欺瞞であると同時に、現実に対する日和でもある。

 

チバは意図的にか無意識にか、そういう「バラけた世界観を一つの方向に」という方法をとらない。彼は無秩序な世界から敢えて目を背けず、不安、怒り、全能感、疲弊感等、無数のベクトルが突きあげ張り裂ける寸前の自意識を、言葉にして吐き出すだけだ。彼の詩には絶望も希望もない。かわりにあるのは圧倒的な生々しさ・リアリティだ。無数のベクトルが無秩序に飛び交い、多方向に飛び散る。

 

よくある処世訓じみたロックの、絶望を(あるいは絶望とセットになった希望を)綴る詩には、現実の生々しさが全く感じられない。ベクトルは予定調和的で楽観的で単調だ。それには現実の無秩序なダイナミズムにおびえた自我をなだめる効果こそ確かにあるかもしれない。だが世界が無秩序なのだから、いくら世界観をまとまったベクトルに仕立て上げようとしても、いずれまた無秩序な世界に痛い目に遭わされる。ロックの歌詞などにすがって、違和感を打ち消したつもりになったとしても、すぐに世界は再び容赦なく襲いかかり、たちまち叩きのめされ、振り出しに戻る。不毛なイタチごっこだ。

当然、普通の人間はこんなイタチごっこを続けることに疲れてしまい、違和感を飼い慣らすようになり、年をとるにつれロックを聴かなくなる。「違和感」から出発していながら、待ち受けるのは「順応」だ。

 

「あんまり考えないんだよね...」と音楽誌のインタビューで繰り返し語っているように、チバは自分の世界観に秩序を持たせようとしない。

いびつな想いだけ 溶けないでいる

"スロー"より引用

と〝スロー〟で歌う彼は、違和感をねじまげてまで秩序を持とうとすることの不毛を知っている。秩序だった世界観をあえて持たないというチバの態度は、決して絶望をみていない訳ではない。どんな絶望さえもロックし続ける根拠にしてしまえる、というだけである。

 

そんなことがなぜ可能なのか。チバが表現者である自分を強く意識しているからだ。どんな絶望に落ち込んだとしても、彼は決して溺れないで、あくまでぶっ壊れそうな自意識を言葉に置き換えようとする。そこにあるのは並外れた意識の強さを持つ、ストイックな表現者の姿だ。

 

ここまで無秩序という言葉を連発してきたが、「チバの詩はめちゃくちゃだから最高!」といっているのではない。世界の無秩序ぶり、バラけた有り様を正確に言葉で射貫く、その表現のテクニックが見事だと言っているのだ。

 

例えば〝brand new stone〟の冒頭で

抱え込んでいた庭で

回り回る犬2匹

枯れたハイビスカスのような

ぼんやりが踏まれてる

"brand new stone"より引用

と彼が歌うとき、「抱え...」では閉塞したイメージが、「回り回る...」では全力で回転しているにも関わらず無力な有様が、「枯れた...」ではうなだれた様子が、「ぼんやりが...」ではあがくものの身動きがとれない感覚が...と、バラけた印象の曖昧な詩でありながら見事にブルースが描ききられている。

 

〝Swimming Radio〟では

錆び付いたまま 息できない

仮面を被った夢を見る

Swingin' Swimming

ふわりと泳いで見せてよね

乾いた匂いでダメになる

radio radio

"Swimming Radio"より引用

頭の2行の切迫した閉塞感は、次の2行で一気に浮遊感・全能感に転化、しかし5行目でその浮遊感を断ち切る不吉な既視感・疲弊感...。ここでは世界のとりとめのないバラけが見事にあぶり出されている。自らが抱えるブルースをそのまままき散らすのではなく、それをあえて突き放して対象化し、ブルースが世界に圧倒されては翻弄される様子を描く、チバの表現者としてのストイシズムが強くにじみ出ている。

 

現実のバラけた有様を言葉で射貫こうとするチバの試みは、次の技法において、より明確に表れている。

 

憧れの森の中 歩いてるけど目は閉じたまま

"ゲット・アップ・ルーシー"より引用

 

かき乱すだけで濁るのをみてる

"サニー・サイド・リバー"より引用

 

垂れ流すだけで首ごと泣いてる

"サニー・サイド・リバー"より引用

 

潜るようにして絡まっている

"blue nylon shirts"より引用

 

刻んだ瞬間を踏み散らすために

"G.W.D."より引用

 

等という風に「〜しては〜」「〜してるけど〜まま」「〜して〜ている」などと、異なる動きを持つ動詞をねじ伏せるようにして繋ぎ合わせ、一つのフレーズにしている。

 

実際、この技法でフレーズを作ってみると「しゃぶりついてはかなぐり捨てる」「おどけたままで埋もれてく」など、曖昧のようでいて妙にリアリティのある文ができてしまうのだ。試してみてほしい。

 

チバが一体どうやってこの表現方法に行き着いたのかは知らないが、バラバラな世界の断片を言葉で射貫き、世界のダイナミズムを言葉の連なりの中に封じ込める、驚くべき方法ではないか。

 

結局の所チバは、同じ事ばかり繰り返すありふれたロックの死に苛立ちを覚えていたのだと思う。「こんな安っちい言葉に自分のブルースや世界観を代弁されたくない」と。自分の詩にも絶えずそういう想いはあっただろう。

 

ブルーズを吐き出したい衝動と、それを言葉で吐き出した途端感じてしまう「こんな言葉じゃダメだ」という違和感。(〝ハイ!チャイナ!〟で一度だけ使わている「吐き足りねぇ」という言葉にも象徴的に表れている。)

そんな相反する二つの心理のせめぎ合いを常に感じていたのだ。彼が感じていたどん詰まりは、実はロック全体のものであった。

 

そんな長きにわたる葛藤から産み落とされた彼の詩、いわば違和感の結晶とでも言うものが、逆に「世界」に揺さぶりを掛けている姿は、みるこちらを圧倒しつつも、強く動かされずにはいられないのだ。

 

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