- 雪渓の注意点は「滑らないこと」だと思われている|実際に人を打っているのは別のもの
- 雪渓を走る石は2種類ある|片方は音が鳴り、もう片方は鳴らない
- 「早朝なら安全」に、一次資料の裏づけはない
- 装備は「当たった時」を軽くする|「当たらない」を作るのは別のもの
- 雪渓が崩れる|45件・死者32名の記録が示す時期
- 持っていくもの|数cmの石には勝てない、という前提で
- やってはいけないこと|雪渓で判断を鈍らせる五つ
- まとめ:雪渓で買えるのは装備、作るのは余白
- 参考にした資料
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雪渓の注意点は「滑らないこと」だと思われている|実際に人を打っているのは別のもの
夏の雪渓と聞いて用意するものは、だいたい決まっている。軽アイゼンかチェーンスパイク。滑って転ばないため。実際それは要る。
ただ、白馬大雪渓を長年調べてきた研究グループの資料を読むと、話の重心が違うところにあった。この10年ほど、この雪渓で人を死傷させてきたのは「滑って転んだこと」でも「落ちてきた石」でもない。
僕は短い雪渓なら何度か歩いている。ただ長さ2km・標高差700mという規模は初めてで、いま準備をしているところだ。同じ立場の人はけっこういると思う。「雪の上を歩くだけ」と思って入ると、たぶん一番危ないところを見落とす。
雪渓を走る石は2種類ある|片方は音が鳴り、もう片方は鳴らない
以下は、白馬大雪渓地形研究グループ(代表・専修大学 苅谷愛彦氏)が2008年9月に公開した調査資料を読んで、そこから分かったことを僕なりに整理したものだ。2005年の杓子岳崩壊以降に現地で集めたデータをもとに、地形学の立場から、大雪渓で起きている現象を落石・崩壊/地すべり・雪面滑走岩片・土石流の4つに分けている。数値と知見はすべてこの資料に依る(末尾に一覧)。
落石:岩壁から離れて落ちてくる。音がする
岩壁の割れ目から剥がれた岩が落下し、転がったり跳ねたりして雪渓まで達する。実測された数がすさまじい。
同グループの計測によれば、2006年5月11日〜7月14日の約2か月間に谷底の雪渓へ落ちた岩片は約700個。2007年の同じ時期は約2000個。しかもこれは直径30cm以上のものだけを数えた値で、それより小さいものは含まれない。小さい岩片ほど数は指数関数的に増えると見られ、危険すぎて計測できなかった場所もある、と資料は断っている。実際に谷底へ達している岩の数は、この数字よりかなり多いことになる。
速度の実測値はないが、条件によっては秒速数十m以上に達すると同資料は見積もっている。人が反応して動ける速さではない。
雪面滑走岩片:すでに雪の上にある石が、自分から滑り出す
こちらが雪渓特有の現象だ。落ちてきて雪の上で止まった岩は、そのまま安全に留まるわけではない。
理屈はこうだ。岩が雪の上に乗ると、その周りの雪は日射や気温で融けていく。ところが岩の下は日陰になったり、逆に岩が熱を持って融かしたりで、融け方が周囲と揃わない。すると岩は少しずつ傾き、座りが悪くなる。傾斜が急な雪面ほどそれが早い。そしてある時点で、誰も触っていないのに動きだす。苅谷氏らの資料は、この過程を大雪渓で繰り返し観測している。
滑る距離が長い。同資料によれば、大雪渓の上部からケルン付近まで1km以上移動した例がある。速度は偶然撮影された映像から秒速数m以上と推定されている。2005年の杓子岳天狗菱の崩壊では直径約6mの岩が1km以上滑り、雪渓上に引かれた登山道の目印を横切っていった。
同資料が注意点として挙げているのが、音の違いだ。岩壁から落ちてそのまま滑る場合は最初に音が出ることもある。しかしもともと雪の上にあった岩が滑りだすときは、大きな音がしない。濃霧や雨のときはとくに慎重な判断が要る、としている。
ここが効く。落石は転がるときに鳴る。滑走は鳴らない。「音がしたら避ける」という構えは、片方にしか効かない。そして残る片方こそが、この雪渓で人を打ってきたほうだった。
実際に死傷しているのはどちらか
同資料が記録している内訳が、この記事の出発点になった。2005年夏以降、落石そのものによる被災者は確認されていない。一方で雪面滑走岩片による死傷者は少なくとも3名。2006年8月27日に登山中の女性2名、2008年8月10日に女性1名が、いずれも滑ってきた岩片に打たれたと推定されている。
落ちてくるのは岩だけではない。雪の塊が雪渓を転がり落ちる現象も目撃されており、直撃すれば致命傷になりうると同資料は付け加えている。
「早朝なら安全」に、一次資料の裏づけはない
雪渓の記事でよく見るのが「落石は午後に増えるから朝早く通過せよ」という助言だ。気温が上がると雪や岩が緩む、という理屈は分かる。ところが同資料は、落石がいつ起きるかについて踏み込んだ断定を避けている。雨天に多いという説は一面では正しいかもしれないとしつつ、晴れていても落石は起きると書く。そして1日のうちで多い時間帯があるという説については、それを論じるだけのデータが得られていないとしている。
つまり「朝なら安全」は、少なくともこの雪渓では実測で確かめられていない。早く通ることに意味がないという話ではない。天候の悪化を避ける、行動時間に余裕を持つといった理由で早発は依然として合理的だ。ただ「朝だから落石は来ない」という安心の使い方は、根拠を持っていない。
研究グループの見立てはもっと厳しい。地形学の立場から言えば、このルートは程度の差はあってもどこも同じように危険で、確実に安全と言える場所も時期も、ほとんどない——そう総括している。
さらに資料の冒頭には、ルート上のどこが安全でどこが危険かという判定を、あえて示さない方針が明記されている。理由が二つあり、ひとつは現状ではその判定が難しいこと。もうひとつが重い。仮に判定できたとしても、それが安心感を与えてしまい、かえって遭難を増やしかねないという懸念だ。危険情報の出し方そのものを、リスクとして扱っている。
装備は「当たった時」を軽くする|「当たらない」を作るのは別のもの
ヘルメットもアイゼンも要る。ただ同資料は、装備への期待をはっきり抑えている。ヘルメット・アイゼン・ピッケルは、衝撃をやわらげ、雪面を安全に歩くことに確かに寄与する。ただしどれも使い慣れていることが前提で、身につけたからといって危険を避けられるわけではない。そして直径数cmの岩片でも、時に致命傷になると釘を刺している。
数cmの石で致命傷になりうる。ヘルメットは被害を減らすが、当たらないことを保証しない。だから当たらないための行動が先に来る。そしてそれは、道具ではなく感覚の使い方の話になる。
耳を塞がない|音は数少ない早期警報のひとつ
同資料が「周囲の状況把握を妨げる危険な行為」として並べている顔ぶれが、思ったより広い。同行者との無駄話、ラジオ、携帯電話、そして鈴の音。雨具のフードを深くかぶることも同じ扱いで、耳を少し出しておくよう勧めている。
熊鈴が並んでいるのが目を引く。樹林帯では鳴らす価値のある道具が、落石の音を聞くという一点では逆に働く。もっとも熊のリスクが消えるわけではないので、これは雪渓の区間だけ止めるという付け外しの話になる。レインウェアのフードのほうは迷う余地が少ない。雨の日ほど深く被りたくなるが、雨の日ほど周囲の音が要る。
ただし前の章のとおり、音で拾えるのは落石だけだ。滑走岩片は鳴らない。だから耳と同時に目も要る。
顔を上げる|そして下りのほうが難しい
資料は、登るときは顔を上げて周囲を見るよう促し、そのうえで下るときは状況の把握が一段と難しいと明記している。
登りは前が上を向いているので、視野に岩壁が入る。下りは進行方向が下で、背中側から来るものが見えない。同じ雪渓でも、下るときのほうが構造的に不利だという指摘だ。
ザックのベルトを締めるか、迷う
岩が転がったり滑ったりしているのを見たとき、方向と速度を見極めて逃げる。同資料はその場面について、重いザックを捨てて退避すべきこともあるとしている。ただし同じ文で、外傷を防ぐ・軽くするという意味では背負っていたほうがよい場合もある、と併記する。そのうえで、雪渓ではザックの胸・腰ベルトの使用を「よく考えるべき」だ、と。
目を引くのは、ここで結論が示されていないことだ。捨てろとも、締めるなとも書かれていない。書かれているのは「よく考えるべき」まで。逃げるなら外せたほうがよく、当たるなら背負っていたほうがよい——両方が成り立つので、一般解を出さずに判断を各自へ残している。
僕はこう考えている。雪渓を歩いているあいだ、ベルトは締めておく。雪渓は滑落しうる斜面で、固定されていないザックは動くたびに振られてバランスを崩す。重荷なら肩に全荷重が乗る。落石を避けるためにベルトを外して、その結果滑って落ちるのでは本末転倒だ。
そのうえで、この一文が投げかけているものは残る。ザックを背負った自分は、とっさに横へ跳べない。上から何かが走ってきたとき、自分の逃げ足がどれだけ鈍っているか。それを一度想像しておくと、行動のほうが変わる。逃げ場のない急な区間で立ち止まって休まない。支谷の出合の真下に長居しない。ベルトを外すかどうかより、そもそも避けにくい場所に長くいないことが先に来る。
間隔を詰めない
落石が迫ったときに、一度に複数人がやられたり、他人を巻き添えにしたりするのを避けるため、歩行中の隊列で必要以上に間隔を詰めないよう勧めてもいる。
雪渓は前の人のトレースを辿りたくなる。ただ詰めて歩けば、一発で全員が被災する。
雪渓が崩れる|45件・死者32名の記録が示す時期
もうひとつ、上から来るものとは別の危険がある。足元の雪渓そのものが崩れる。
新潟大学が公開している雪渓崩落災害データベースには、1965年から2004年までの39年間で45件、死者32名・負傷者24名が記録されている。発生は6〜8月に集中し、7月が最多。まさに夏山シーズンそのものだ。以下の3件も同データベースに拠る。
| 年月日 | 場所 | 起きたこと |
|---|---|---|
| 1965/8/14 | 群馬・谷川岳 | 雪渓が陥没し、4人パーティのうち1人が直径5、6mの雪の塊の下敷きとなり死亡 |
| 1969/10/15 | 長野・白馬岳 | 学校行事中、幅5〜6m・厚さ3mの雪の塊の下敷きとなり、3人が死亡、1人が重体 |
| 2004/8/1 | 新潟・荒沢岳 | スノーブリッジが崩落し、その下で写真撮影していた4人が雪塊の下敷きに。3人が死亡 |
並べると、危険の形が見えてくる。雪渓の上を歩いていて踏み抜くだけではない。雪渓の「下」や「そば」にいて、崩れてきた雪塊に潰されている。2004年の例は、下で写真を撮っていた4人が巻き込まれている。
雪渓は下を水が流れて内側から融け、空洞ができる。表面は繋がって見えても、下は抜けている。雪渓の末端や、雪の下から水音がする場所には近寄らない。写真を撮るために雪の壁へ寄るのは、記録に残っている死に方そのものだ。融け水が集まる沢筋の渡り方そのものは増水時の渡渉を水位・流速・退路で判断する回にまとめてある。
持っていくもの|数cmの石には勝てない、という前提で
そのうえで装備の話をする。どれも「当たった時に軽くする」「滑らないようにする」ための道具で、当たらないことを買えるわけではない。
アイゼン類|白馬大雪渓の場合はチェーンスパイクでも可とされている
白馬山荘が発信している2026年7月29日時点の現地情報では、アイゼン(チェーンスパイクや軽アイゼンでも可)とヘルメットが挙げられている。上部は秋道に切り替わり、雪渓が短くなって橋が架けられている状態だ。ただしこれは今シーズンのこの時点の話で、雪の量は年によって大きく変わる。入山直前に山小屋の最新情報を見るのが前提になる。
脱着の速さを取るならチェーンスパイク型。雪と夏道が交互に出る道では、着け外しの回数がそのまま効いてくる。歯数と出番の違いはチェーンスパイクと軽アイゼンを6機種比べた回で細かく見ている。

斜面で歯を食い込ませたいなら6本爪。雪渓が長く、傾斜がある区間を登り続けるならこちらが安心できる。


ヘルメット|「持っていく気になる重さ」で選ぶ
資料が言うとおり、数cmの石でも致命傷になりうる。ヘルメットは万能ではない。それでも被害の大きさは変えられるし、そもそもザックに入れたまま出さない・重くて持っていかないのが一番よくない。だから選ぶ基準は、性能より「持っていく気になるか」でいい。

目と肌|反射は下からも来る
雪渓では日射が上からも下からも来る。サングラスは眩しさ対策というより、上を見上げ続けるための道具だと考えたほうがいい。眩しくて顔を伏せてしまえば、この記事で書いてきた「顔を上げる」が成立しない。

日焼け止めも同じ理屈で、塗り漏れるのは顎の下と鼻の穴の周りになる。ふだん日が当たらない場所に、下から光が来るからだ。
あわせて、雪渓は涼しいので水を飲む量が落ちやすい。それでも標高と日射で消耗は進む。行動中の水分をどう見積もるかは発汗量から逆算する水分計画の回が使える。

やってはいけないこと|雪渓で判断を鈍らせる五つ
- イヤホンやラジオで耳を塞ぐ。落石の音は数少ない早期警報で、それを自分から消すことになる。熊鈴も同資料は同じ扱いにしているが、こちらは熊のリスクとの兼ね合いがある。雪渓の上は見通しが利き樹林帯とは条件が違うので、区間で付け外しを考えるのが現実的だと思う。
- 雨具のフードを深く被る。雨の日ほど深く被りたくなるが、雨の日ほど音が要る。耳を少し出す。
- 濃霧・降雨のまま突っ込む。滑走岩片は音がしないので、視界を失うと検知手段がゼロになる。白馬山荘も「視界不良時の通行はとても危険」と書いている。
- 雪渓の末端や雪の壁に寄って写真を撮る。崩落災害の記録には、雪渓の下や横にいて雪塊に潰された例が並んでいる。
- 前の人との間隔を詰めて歩く。一発で複数人が被災する。
まとめ:雪渓で買えるのは装備、作るのは余白
夏の雪渓で用意すべきものは、アイゼンとヘルメットで終わらない。いちばん人を死傷させてきたのは、雪の上にすでにある石が音もなく滑り出してくる現象だった。これは装備では止められないし、耳でも拾えない。
だからやることは、感覚に余白を作っておくことになる。耳を塞がない。顔を上げる。視界が悪ければ引き返す。人と離れて歩く。避けにくい場所で足を止めない。どれも金がかからないかわりに、意識していないと全部できない。
そして「朝なら安全」「晴れていれば安全」という安心は、少なくともこの雪渓では実測に支えられていない。研究グループが危険度の判定をあえて公表しないのは、安心が遭難を増やすと考えているからだ。安全な場所を探すより、危険がどこにでもある前提で通過時間を短くするほうが、たぶん筋がいい。
参考にした資料
- 白馬大雪渓地形研究グループ(代表・文責:専修大学 苅谷愛彦)「2008年8月19日 白馬大雪渓 崩落・地すべり事故に関連して ― 地形変化実績図の公表と登山の注意点 ―」2008年9月5日版 ── 落石・崩壊/地すべり・雪面滑走岩片・土石流の分類、岩片の計測数、滑走距離と速度、死傷事例、および登山者への注意点。資料(PDF)
- 新潟大学 災害・復興科学研究所「雪渓崩落災害データベース」 ── 1965〜2004年の45件、死者32名・負傷者24名、月別の発生傾向、個別の災害記録。データベース
- 白馬山荘 現地情報(2026年7月29日) ── 大雪渓上部の秋道への切り替わり、装備、落石と視界不良への注意。山と溪谷オンライン 山小屋の最新情報
雪渓の状態は年・季節・時間で大きく変わる。入山前に必ず山小屋・自治体の最新情報を確認し、現地の指示に従うこと。本記事は特定のルートの通行可否を判断するものではない。
